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苦難の時代を経て

独自の画風を生み出すまでの、生みの苦しみ。

刑部人は、刻一刻変化する自然の表情を自らの感性に忠実に、ペインティングナイフを生かした躍動感あふれるタッチで描いた画家として知られる。

しかし、そのような刑部の画風は、決して容易に得られたものではなかった。

東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)在学中に帝展に初入選を果たすなど、画家として一見順風満帆にキャリアをスタートさせたかに見えた刑部は、ヨーロッパから到来したキュビズム、フォービズムの流れに翻弄され、数年間の深いスランプに陥る。
当時刑部が師事し、美術学校の校長で日本の美術界をリードしていた和田英作は、帝展初入選から数年後の刑部に対し「君は今後帝展にいては不利になろう。もっと個性的な絵を描かなければ入選も危なくなる。」といったとされる。

刑部はこの深いスランプの時期に自らの作風を確立すべく、さまざまな試みを行う。

この時期の作品の多くは、画家自身には不本意な出来のものが多かったのだろうか、ほとんどを自らが処分したとされる。

本書では、あるいは、画家のそのような生前の意向に反することになるかもしれないが、当時の刑部の苦闘の跡を感じ取るために、この時期の残された数少ない作品もあえて掲載している。

 

1. 秋色(山梨県山中湖畔)<F15>

 

後年、確立するペインティングナイフを多用した技法は、絵具が乾いていない状態でどんどん上に塗り重ねていくもので、光と影の境界線を目立たたせることなく自然をありのままに画面に再現することを可能にする。
それに対して帝展初入選からしばらくの時期は絵具が乾いてから室内で光のコントラストを画面に付け加えているので、表現が硬直したものになることを避けられなかった。
本作品は自らの画風を確立するべく刑部が苦闘を続けていた試行錯誤の時期だったと考えられる。画面上に画家のサインはない。

 

画風の変遷と技法の進化。

 

ほぼ同じ構図で描かれた「下曽我梅林」の二作品。刑部のモチーフに対するアプローチが制作時期によって大きく異なることがわかる。左の作品はオイルを塗り重ねていくグレージングの技法で丁寧に描かれている。グレージングの技法で描いていた時期、刑部は一枚の絵を描き上げるのにかなりの時間がかかったという。それに対して、右の作品は刑部の円熟期の特色として知られる、ペインティングナイフを駆使した躍動感あふれるタッチで描かれている。自然の風景を描く際に、現場主義を徹底し自然の時々の表情をありのままにキャンバスに再現しようとする立場を選んだ刑部は、印象派の巨匠モネと同様、絵具をキャンバスの上に混ぜずにおいていく表現方法をとるようになった。

 

 

富士山をモチーフにした異なる時期の三作品からも刑部の作風の変遷がうかがえる。左上の作品には刑部が美校時代に師事した和田英作の作風の影響が見られる。右上の作品は、グレージングの技法で描かれている。左下の作品は円熟期のもの。 刑部は、朝富士に関し、自らの印象を次のように書き記している。 「まだ眠りから醒めぬ大地の中で富士山の頂きが、昇る太陽の光を受けてばら色に輝きはじめる。やがて一秒一秒、そのばら色は広がり朝の光の中につつまれる。」(銀座美術館刊行「刑部人作品集」日本10景より) 刑部が描きたかったのは、いわゆる名所絵的な富士ではなく、この一節に見られるように、まさに「一秒一秒」目の前で変化していく光の塊としての富士であり、それをキャンバス上に再現することを制作の現場で最優先するようになった。

 

 

23. 初夏の庭 <F15>

 

24. 裏庭 <F8>