刑部人と渓流
刑部にとって渓流は最も得意とするモチーフのひとつであった。 ほとばしる水の音さえ聞こえてくるような数々の渓流の傑作を残している。 ここでも、初期の作品がグレージングの技法を使って丁寧に描かれているのに対し、 円熟期の作品では、鬱蒼と生い茂る木々の影、勢いよく流れる水の表情、煌めく木漏れ日までが、 ペインティングナイフを活用した躍動感あるタッチでいかんなく表現されている。
刑部の手帳には9月13日に「西武バス中嶋忠三郎さんを訪問。サムホール秩父の渓流を呈す。」との記載がある。当時の奥秩父は電気も通っておらず、相当な「秘境」だったようである。地元の人の助けがなければなかなか踏み入ることができない場所であり、おそらく、西武の中嶋氏に地元の案内人を紹介され、その御礼にこの作品を呈したのではないか。
「8月半ば過ぎ、栃木県塩原の龍化の滝の沢で描く。木々の生い茂った中を行き、岩の裂け目を分け入ると、この光景が開けている。」この日の手帳にはその印象を「クールベの如し」と書いている。この旅では雨の日が続いたにも関わらず、2日半で計9枚と、塩原の萌え出ずる夏を精力的にカンヴァスに留めた。 「刑部人のアトリエ」より引用