刑部人と京都・奈良
刑部は、洋画の大家、金山平三と全国各地の制作旅行に同行する。金山は、刑部邸の近所に住み、以前より妻の実家の島津家と懇意にしていた。金山は制作風景を他人に見せることを極度に嫌うなど難しい人柄で知られていたが、刑部は金山に大変気に入られた。刑部は、金山の真摯な制作態度を目の当たりにし、大きな影響を受けた。
他方で、金山は京都、奈良を絵のモチーフにすることに関し「京都は描く所がないなあ、奈良はもっとないよ。」と口にしていた。名所絵的な絵を金山がひどく嫌っていたことがうかがえる。金山の生前には、そのような考えを持つ師に遠慮してか、京都、奈良、を描くことのなかった刑部だが、金山の死をきっかけに、京都、奈良を題材にした絵の制作が増えていく。京都、奈良、等に関して、刑部は次のように語っている。
「私は所謂名所絵の中にこの千数百年の歴史、文化のしみこんだものと自然とが渾然一体となって醸し出すこの不思議な美しさ、これは決して通俗ではなく、名所絵的なものでもない様に思われる。万葉、古今、新古今の歌人から芭蕉などに到る自然に対する日本人の感じ方なのではなかろうか。私達はこの日本の血液を持って居る為にこの自然を見ると万葉以来の人々の感じたものを感じるのだ。彼等は文字を使い或いは和歌を或いは俳句を作った。私は油絵具を使い、西洋画の技法でその感懐を画布に表現して見たいと思う様になった。」 (「私の絵のことなど」より引用)
“東大寺を描く”
刑部は東大寺を遠望する作品を多数残している。四季折々の奈良の風景の中にまさに「渾然一体」となったこの壮大な、しかも美しい建造物は画家を強く魅きつけてやむことはなかった。 「若草山に登り澄みきった秋色の下、遥か西の方生駒を望めば目の下には大仏殿の大屋根、興福寺の五重塔と奈良の市街を望むことができる。“青丹よし奈良の都は・・・”と歌った天平の人々もこの若草山に登り、生駒山の下に広がる平城宮や七大寺の堂塔伽藍を眺めたに違いない。」 「この雄大な建物は、四方どの方向から見てもよい。48年より大修理のため暫くの間この姿を見ることができないのが残念である。」 (銀座美術館刊行「刑部人画集」日本10景より)